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東信

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あずままこと・1976年福岡県生まれ。98年、ミュージシャンを目指して上京。大田市場花き部でのアルバイトをきっかけに花の世界に入り、2002年東京・銀座6丁目の商業ビルに「ジャルダン・デ・フルール」を開く(後に東京・南青山に移転)。05年よりフラワーアーティストとしての活動を開始。同年、ニューヨークのトライベッカで行った初の個展を皮切りに国内外での活動を精力的に行う。07年、東京・清澄白河にて2年間限定のギャラリー「AMPG」を開設。09年、「東信、花樹研究所」(Azuma Makoto Kaju Kenkyusho = AMKK) を設立。12年にはサントリーミドリエ株式会社のクリエイティブディレクターにも就任。現在は「花屋」の仕事を軸に、店舗装飾やプロダクトとのコラボレーション、国内外での作品発表、映画、広告、雑誌などさまざまな分野で植物をキーワードに活動している。
AMMK(東信、花樹研究所)http://azumamakoto.com

花屋が1軒しかない田舎町で育ち、花のことは何も知らなかった

ミュージシャンを目指して21歳の時に福岡から上京しましたが、演奏生活だけでは食べていけなくて。アルバイトを探していたときにたまたま募集を見かけ、花の仲卸で働き始めたのがこの世界に入ったきっかけです。花が好きだったわけでも、興味があったわけでもありませんでした。

 

花の仕事にのめりこんだ理由は、やはり花に魅せられたからです。咲いては枯れていく花たちが瞬間ごとに見せる表情にひきつけられました。ただ、最初はまず、圧倒的な量の物流を目のあたりにして、それだけの花を人が必要としていることに驚いたんですね。僕は花屋が1軒しかない田舎町で育ち、花といえば、せいぜい母が育てていた庭の花しか知りませんでした。だから、「花屋ってこんなにすごい世界なんだ」と衝撃を受けて、花屋とは何か、花とは何かをもっと見たいし、知りたいと思ったんです。

 

仲卸で余った花をトラックに積んで売り回るうち、麻布十番のスーパーの店長さんから声をかけていただき、店先にある小さな花屋を任されることになりました。23歳の時です。花屋の店先に立って実感したのが、花屋というのは人から感謝される仕事だということです。いいものを作れば、お金を頂いているにもかかわらず、お客さまからときには涙まで流して「ありがとうございます」と言っていただける。お客さまを幸せにすることで、自分が幸せになる仕事なんて素晴らしいと思い、ますます仕事に熱が入りました。

 

ただ、在庫から花を売る従来の花屋のシステムにはどうしてもなじめませんでした。ビジネスとしては仕方ないとはいえ、ロスをなくすためにあと数日しかもたない花を花束に入れたり、売れ残った花を捨てることに抵抗があったんです。お客さまが心をこめて大切な人に贈る花束なのだから、その方の心に寄り添いながらクオリティの高いものを作りたいし、花の命も大事にしたい。そんな思いを膨らませていた時に銀座の一等地にある商業ビルから出店のお話を頂き、25歳でオーダーメイドの花屋「ジャルダン・デ・フルール」を始めました。

 

「ジャルダン・デ・フルール」は切り花を店頭に置かず、オーダーを受けるための机と椅子だけの「花のない花屋」。お客さまの要望を聞いてから花を仕入れ、世界でたったひとつの花束を作ります。今でこそ同じようなスタイルの花屋はありますが、当時はほかに例のないコンセプトでした。それだけに、お客さまもどう利用していいのかイメージが湧きにくかったのかもしれません。最初はほとんどオーダーがなくて、大赤字。それでも、夜中に肉体労働のアルバイトをしながら店を続けました。街頭に立って道行く人に声をかけ、その人のイメージに合う花束を無料で作ったり、ショップを回って「タダでもいいから、花を飾らせてください」とお願いしたり、宣伝も地道にやりました。

 

お客さまが増えたのは、店を開いて3年がたったころです。当時始めた海外での活動が注目されたことが起爆剤になりました。英語力もない僕がいきなり海外に出たのは、個人的に作っていた実験的な作品を発表できる場を求めたからです。もちろん、最初は日本で探しましたよ。でも、師匠も持たず、何の実績もない僕の作品を受け入れてくる場はありませんでした。このままでは時間がかかり過ぎると考え、作品集を抱えてニューヨークに行ったところ、知人の協力もあって個展を開く機会に恵まれたんです。その個展が成功した勢いで、今度はパリへ。有名セレクトショップ「コレット」のバイヤーに直談判し、クリスマスディスプレーをやらせてもらいました。すると、国内のメディアにも取り上げられるようになり、「ジャルダン・デ・フルール」のことを多くの方に知ってもらえるようになったんです。
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新しいことをやりたいと思うなら、ちょっとでも逃げ道を作ったらダメ

「ジャルダン・デ・フルール」は今年で12年目。花の世界では異端だった「花のない花屋」というコンセプトも、今では珍しくなくなりました。自分が本当にやりたいことを一歩ずつ形にしてこられたのは、いろいろな人たちが手を差し伸べてくれたからです。いい出会いを引き寄せられたのはどうしてなのか。自分で言うのは口はばったいのですが、僕が一生懸命やっている姿を見ていてくださる方たちがいたからだと思います。何かを変えたい、新しいことをやりたいと思うなら、ちょっとでも逃げ道を作ったらダメ。全身全霊をかけて取り組んでいるかどうかを人は見ているのではないでしょうか。

 

店舗装飾をはじめ、映画や広告のフラワーワーク、作品集の出版などフラワーアーティストとしての活動も広がりましたが、僕のベースは花屋です。お客さま、花、作り手である自分の三角関係が一番美しい状態を目指すのが花屋の作品作り。そこに進化した要素を取り入れていくためにアート活動があると考えています。花を使って人にどう感動を与えられるか。僕にとっては、それが一番大事。お客さまのために作る一件のオーダーも、何百万人が目にするような広告のための作品もすべて同じ気持ちで作っています。

 

花の仕事を始めて以来ずっと肝に銘じてきたのは、花は人間のために存在しているわけではないということ。人間は花を必要とするけれど、花は人間を必要としません。人間のエゴで花の命を絶つからには、いい仕事をして花の価値を高めるのが花屋の使命。花の命を背負う覚悟と、花に対する尊敬の念なしには務まらない仕事です。だから、僕はスタッフを指導する時には厳しいですよ。花や、花を贈るお客さまの気持ちを粗末にするような中途半端な姿勢で仕事をしないよう口を酸っぱくして言っています。

 

仕事に対する考え方は人それぞれだけど、僕にとって仕事というのは、やっぱり命を張ってやるものです。なんだか暑苦しいですよね(笑)。でも、暑苦しくていいんじゃないかと思う。社会人にとって一番大きな時間を占めているのは仕事でしょう。だったら、好きなことをやりたいし、極めたい。ただ、好きなことが必ずしも自分に向いているとは限らないから、仕事というのは好きなことをやるよりも、好きになることが大事だと思います。僕だって本当は音楽で食べていきたかった。でも、花で食っていくからには、花を好きになろうと思ったし、花についてもっと知ろうと頑張りました。かつて自分が望んでいた未来は来なかったけれど、人生を楽しむにはそれしかないって思ったから。

 

最後に、社会に出たら遠慮したり、臆したりしたらダメ。今の若い人たちはおとなしいけれど、もっとずけずけ言っていいと思う。先輩たちからは「生意気だ」とたたかれるかもしれませんが、自分が心からやりたいことがあるのなら、それを実現するためにはたたかれてなんぼ。痛い目にあうのを怖がらないでほしいですね。
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INFORMATION

東さんの初作品集『花と俺』(求龍堂/税込み4095円)。2002年に「ジャルダン・デ・フルール」を営み始めてから現在に至るまでに制作された全作品の写真とともに、作品に至るまでのラフスケッチやメイキング写真も掲載されている。

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取材・文/泉彩子 撮影/刑部友康


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