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<前編>石内 都

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いしうち・みやこ●1947年、群馬県生まれ。神奈川県横須賀市で育つ。1970年、多摩美術大学美術学部デザイン科染織デザイン専攻中退。1979年に「APARTMENT」で女性写真家として初めて第4回木村伊兵衛写真賞を受賞。2005年、母親の遺品を撮影した「Mother’s」で第51回ヴェネチア・ビエンナーレ日本館代表作家に選出される。2007年より現在まで続けられる被爆者の遺品を撮影した「ひろしま」シリーズも国際的に評価され、近年は国内各地の美術館のほか、アメリカ、オーストラリア、イタリアなど海外で作品を発表している。2013年紫綬褒章受章。2014年には「写真界のノーベル賞」と呼ばれるハッセルブラッド国際写真賞を受賞。作品は、横浜美術館をはじめ、東京国立近代美術館、東京都写真美術館など国内主要美術館、ニューヨーク近代美術館、J・ポール・ゲティ美術館、テート・モダンなど世界各地の美術館に収蔵されている。

人が避けて通るところにひょいと行っちゃう

-初個展「絶唱、横須賀ストーリー」(1977年)から40年間で撮影された作品を展示した横浜美術館での個展「石内 都 肌理(きめ)と写真」(2017年12月〜2018年3月開催)を拝見しました。古いアパートの剥がれてめくれ上がった壁、傷跡のある肌、ご自身のお母さまや広島の被爆者の生の痕跡が残された遺品など、石内さんの写真を見ると心がざわざわします。

私の場合、人が嫌がるものが好きみたいね。日なたより影が好きで、人が避けて通るところにひょいと行っちゃう。昔からある種の美意識が、普通の人とちょっと違っていたんです。人が見ようとしないもの、遠回りして避けていくものを凝視するというところが私にはすごくあって。「何だろう」「何で嫌なんだろう」って気になるの。

 

マイナスはじっくりと見つめることでプラスになり得るけど、プラスはマイナスになる。じゃあ、マイナスの方がずっと面白いなと思ってさ。面白いな、美しいなと思うものしか撮っていないのよ。

 

-大学では染織を学ばれたんですよね。写真を撮り始めたきっかけは?

撮り始めたのは26歳か27歳かな。大学は学生運動やらいろいろで4年で辞めて、アルバイトをしながらフラフラしていて。そんな時に友人から写真の機材一式を預かって、彼はもう使わないと言うし、このまま置いておいてもゴミになるだけだなと思ってね。時間もいっぱいあるし、まあ、やってみようという本当に軽い気持ちで。写真家になるとかそういうことではなかったんです。

 

で、写真をやってみたら、撮ることよりも暗室でプリントをする時間が楽しかったの。

 

-暗室にいる時間が、ですか。

白い印画紙からね、じわじわと粒子が現れてくるさまが非常にセクシーなんですよ。あと、プリントって手仕事で、染め物や織物と一緒だなって思った。それこそ、写真の定着液は織物の糸を染める薬品と同じなのよ。私、そのにおいが好きだったから、暗室にいることが心地よくてね。写真を始めたころは暗室に入りたくて撮っていました。今でも撮影は苦手なのよ。カメラを習ったこともないし。

 

仕事で写真を撮っても、「仕事だけ」と割り切れない

-最初にお撮りになったのは、横須賀の街でしたよね。

小学校1年生から大学2年生になるころまでいたんだけど、大嫌いだったの、横須賀。6畳一間のスラム街みたいなところで暮らしてね。横須賀って軍港でしょう。戦前は日本海軍の街で、戦後は米軍基地の街。私は群馬から引っ越してきてよそ者だったから、軍港の持つ独特の空気が客観的に見えてしまったの。米兵による女性暴行事件が日常的に起きていて、小さい時から「女の子は行っちゃいけない」と言われる通りがあったりね。そういう街で思春期を過ごして、具体的に何かはよくわからないけれど、横須賀の街から痛みみたいなものを受けているわけ。そういう自分のこだわりを写真に撮り、プリントして仕上げていくプロセスの中で吐き出していった。だから、ひどい話、「敵討ち」みたいなものだったのよ。個的(個人的)な。ところが、それが評価されて木村伊兵衛写真賞(※)をもらって、山のように仕事の依頼が来たの。

(※)朝日新聞社、朝日新聞出版主催。毎年、優れた作品を発表した新人写真家に授与され、「写真界の芥川賞」とも称される。石内さんは1979年に第4回木村伊兵衛写真賞を受賞。女性初の受賞だった。

 

-山のように。

ええ。ありとあらゆる出版社から依頼を頂いて、1つやってみて「依頼されたものを撮るのは向いてないな」とは思ったの。でも、やってみないとわからないから各社1回はお受けしようと決めたけれど、結局向いていなかった。今でもそうなんですけど、私にとって写真というのは仕事で撮っていても、仕事だけと割り切れない。もっと自分の表現みたいなもので、それがお金になるというのはやはりなかなか難しいんだなあと。だから、請け負い仕事は一切やめて、30年近くやらなかったの。父の会社で経理の仕事をしながら、自分のためだけに撮っていました。

 

自分の撮りたいものは撮り尽くした

-依頼された仕事を受けるようになったのは?

「Mother’s」(2002年)で母の遺品を撮って、私は母との関係がうまくいっていなかったから、ようやく対話を始めたような感じでね。その時に、個的なもので撮る必要のあるものはこれから先あまりないなあと思ったの。自分の撮りたいものは撮り尽くしたなと。で、それからは頼まれたものを撮ることの方が多いかもしれない。「ひろしま」や「フリーダ・カーロ」もそうだし、最近だと、徳島の阿波人形浄瑠璃やアメリカ人ファッションデザイナーのリック・オウエンスさんのお父さまの遺品も依頼されて撮りました。実は、リック・オウエンスさんのことは最初知らなくてお断りをしたんだけど、3回頼んできてくれたので、お引き受けしたの。よくよくお話をうかがったら、お父さまは戦後すぐ進駐軍で日本に来ていて、遺品というのは着物。生涯大切にされていた着物を撮らせていただいて、これも何かの縁だと思い、気持ちよく仕事ができました。

 

-経験を積まれて、どんな仕事でも楽しめるようになったということでしょうか?

撮りたいものを撮るというのは変わっていないのよ。昔は私が若造で、私自身も世間の人も私が何者なのかがわからなかったから、何でもかんでも撮ってくれだったのね。でも、今はこれまで撮ってきたものの歴史があるから、私が何を撮っているのかわかって向こうが選んでくれている感じ。頼まれた仕事であっても、自分の撮影にしていけるから楽なの。だから、もう来るものは全部撮ってもいいかなというくらい。まあ、向こうが本当に私で良ければというか、私の写真を必要としているならばね。

後編では海外での活動や最近のお仕事、デビュー40年を経た今抱く写真への思いについてうかがいます。

→次回へ続く

(後編 3月28日更新予定)

 

INFORMATION

建物や皮膚、そして遺品などに残された生の軌跡から記憶を呼び覚ます石内さんの写真は「記憶の織物」とも評され、世界各地で高い評価を受けている。『石内 都 肌理(きめ)と写真』(求龍堂/2800円+税)は、石内さんの40年にわたる活動を振り返ることができる横浜美術館の展覧会公式図録。「肌理」をテーマに初期の未発表写真から最新作まで、自選された約240点が紹介されている。

 

取材・文/泉 彩子 撮影/鈴木慶子


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