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田中 光

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たなかひかる・1982年京都府生まれ。お笑い芸人を目指して京都精華大学芸術学部版画学科を中退し、大阪NSC(吉本総合芸能学院)24期生に。2001年幼なじみとコンビ「ゼミナールキッチン」を結成し、大阪よしもとで10年間活動。05年と07年にM1グランプリ準決勝進出、09年キングオブコント準決勝進出。11年、トリオ「アボカドランドリ」を結成し、活動の場を東京に移す。現在はピン芸人「タナカダファミリア」として活動中。13年4月からツイッターやブログで公開している1コマ漫画『サラリーマン山崎シゲル』が話題を呼び、書籍化されている。

絵を描かなかった13年間。「漫才以外のことをやるのは、負けや」と思っていた

僕にはサラリーマン経験がないので、『サラリーマン山崎シゲル』はすべてイメージで描いています。もともとツイッターで公開していたので画像が1点しかアップできず、1コマになりました。単純な絵なので一枚書き上げるのにはそんなに時間はかからないです。描く時間よりも考えている時間の方が圧倒的に長いですね。「こんな部下がいたらイヤだ」というお題の大喜利をずっとやり続けているような感じ。表現方法が違うだけで、お笑いをやっているのとほとんど変わらないです。

 

ただ、この表現方法の違いというのが僕にとってはホンマに大きかったです。芸人として売れなくて、どんなにライブで頑張ってもツイッターのフォロワーさんは増えなかったのに、絵やったらこんなにたくさんの人が見てくれはるんやって衝撃でしたね。それはもう、うれしかったです。

 

ツイッターで漫画を公開し始めたのは、2012年ごろ。当時はトリオ「アボカドランドリ」として活動していたのですが、メンバーの難波くんがピースの又吉直樹さんと高校のサッカー部で一緒だったことから僕も又吉さんと仲良くさせてもらっていて。又吉さんに「なんか特技があったら、伸ばした方がいいよ」とアドバイスを頂いて、僕にできることと言えば絵くらいかなと考えて、漫画を描き始めたんです。

 

絵は子どものころから好きでしたが、芸人を志して大学の版画学科を中退してからは、13年間絵を描くことを封印していました。漫才以外のことをやったら負けやと思っていたんです。やっぱり「俺は漫才で売れんねん!」とめっちゃトンがっていましたから。芸人としての収入はほとんどなかったので、アルバイトはいろいろやりましたが、居酒屋のホールスタッフや京都・祇園の高級クラブのボーイ、京都・錦市場のお米屋さんの販売スタッフなどすべて接客業でした。僕は芸人のくせに社交性もなくて暗かったので、矯正(きょうせい)しなければと思って。そのかいあって人の目を見て話せるようにはなりました。

 

20代半ばには新人お笑い芸人の日本一を決める「M1グランプリ」で2回準決勝に進出し、「いよいよ売れるぞ!」と期待しましたが、何も起こらず…。保育園時代からの幼なじみで、ずっとコンビを組んできた相方がお笑いをあきらめてしまい、僕も一度はやめようと決めたんです。その時の解放感がすごくて。それまではそれこそ歯を磨いている時も、彼女と遊園地や海に遊びに行っても、どこかにお笑いのことが常にあったんです。それが「もう面白いことを考えなくてええんや」と思ったら、世の中ってなんて楽しいんだろうと。

 

そんな時に「もったいないから、一緒にやらへん?」とNSC(吉本総合芸能学院)の同期だった難波くんに誘われて、トリオ「アボカドランドリ」を結成しました。お笑いから離れてあんなに楽しかったのに、戻ったのは「俺たちが考えてきたことは、絶対に面白い」という思いだけは消えなかったからです。まあ、単なる思い込みなんですけど(笑)。ただ、もう30歳になるところでしたから、このまま大阪で同じことを繰り返しても意味はないと思いました。それで、東京に行って白黒つけようということになったんです。

 

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追い詰められて、自分ではどうしようもなくて周囲に助けを求めた

上京後すぐに事務所も決まり、安アパートの一室に3人で暮らしながら、ライブに出始めましたが、1年たっても大阪時代と状況は変わりませんでした。いや、年を重ねたぶん、精神的には大阪時代よりも苦しくなっていくばかりでした。20代前半のころは、実質はアルバイトしかしていなくても「俺、芸人やってんねや」と胸を張って言えたんですけど、30過ぎても同じことをしている自分が「芸人ごっこ」をしているようにしか思えなくなってしまって。

 

初めて心の底から、とにかく世に出なければ始まらないと思いました。今までは漫才やコントのことしか考えてこなかったけど、表現方法は何でもいい。「あいつら、ムチャクチャやってんな」と言われることをやって、まずはみんなに見てもらわないとダメだと。そんな時に、さっきお話しした又吉さんからのアドバイスがあって漫画を描き始めたんです。

 

「山崎シゲル」の前は地球に必要のない発明品をネタにした漫画を描いていて、ひとりで描いてはツイッターにアップしていました。でも、反応が大きくはなくて。「山崎シゲル」では、1本描いては事務所の先輩やスタッフなどいろいろな人に「どう思いますか?」「セリフ回しがわかりにくいところがありますか?」と意見を聞いて回りました。「面白くない」「わかりにくい」と言われたらすぐ直してまた見てもらって。根本のアイデアは変えませんでしたが、「人に見せる表現」というのを徹底的に意識しました。

 

世の中に自分たちを見てもらうために始めたとはいえ、ツイッターで公開し始めたころは「ちょっと名前を知ってもらえたら」くらいの気持ちでした。ところが、又吉さんをはじめいろいろな芸人さんや芸能人の方々がソーシャルメディアで話題にしてくださって、本まで出せることになって。しかも、最初は初版5000部の予定だったのに、日に日にインターネットでの評判が大きくなって初版3万部に決定。発売日のサイン会で事務所の先輩たちが書店でお客さんの呼び込みをしてくれる姿を見た時は泣けました。

 

「山崎シゲル」を多くの方に面白がってもらえたのは、ホンマに周りのいろいろな方たちが力を貸してくださったおかげです。僕はずっと人に「助けてください」と言うことをカッコ悪いと思っていました。「絶対に言わんとこ」と決めてました。でも、追い詰められて、どうにかしたいけど自分ではどうしようもなくて、思い切って助けを求めたら、気持ちよく助けてくれる人たちがたくさんいた。最初から人を頼りにしていてはダメでしょうけど、八方手を尽くしてもどうにもならないときは、自分から声を上げて助けてもらうということも大事なのかもしれません。

 

切羽詰まって見えてきたことはほかにもあって。自分のダメなところをこれでもかと思い知らされたんですよね。面白いことを考えられるという自信だけはあるのに、ネタにすると面白くない。なぜだろうとずっと考えて、自分自身の表現力が低いんだってわかった。演技がうまくないし、声もこもっていて舞台上で通らない。ずっとそれをどうにかすることしか考えてこなかったけど、「俺のせいで面白くないんだ、俺のせいなんだ」というのを一度受け入れたんです。だから、漫画という表現方法を試してみようと思えた。それがどうやら、僕にはすごくいい表現方法だったみたいなんですよ。

 

最近は、いろいろなところから漫画の仕事のお話を頂いたり、『サラリーマン山崎シゲル』の著者として取材もしていただいたりしてありがたいなと思います。まだ芸人だけでは食べていけない状況ですから、この先どうなるかはわからないですけど、漫画を描くにしても、芸人だからこそできる構成とか発想を大事にしていきたい。人からは「漫画はお笑いじゃない」と言われるでしょうけど、「いや、お笑いですよ」と言えるよう頑張っていきたいです。

 

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INFORMATION

とある会社の、とあるサラリーマン「山崎シゲル」が部長相手に繰り広げる異常な日常をシュールな1コマで描く『サラリーマン山崎シゲル』(ポニーキャニオン/税抜き1200円)。食パンに乗って通勤、疲れた部長に缶コーヒーのようにサバ缶を差し入れる、部長を跳び箱のように跳び越える、部長にサイドカーを取りつける…など「山崎シゲル」の無茶苦茶な言動と、対峙(たいじ)する部長の静かなツッコミによるシュールな世界観がクセになる。

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取材・文/泉彩子 撮影/鈴木慶子


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