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松本零士

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まつもとれいじ・1938年福岡県生まれ。54年、福岡県立小倉南高等学校在学中に投稿作『蜜蜂の冒険』が『漫画少年』に掲載されデビュー。57年、月刊少女雑誌『少女』の連載が決定して上京。以後、少年漫画、青年漫画、イラスト、建造物や遊覧船「ヒミコ」のデザインなどさまざまなジャンルで活躍している。代表作に『銀河鉄道999』『宇宙海賊キャプテンハーロック』『クイーン・エメラルダス』『新竹取物語 1000年女王』『男おいどん』など。日本漫画家協会常任理事・著作権部部長、日本宇宙少年団理事長、日本中央青少年団体連絡協議会会長、コンピュータソフトウェア著作権協会理事などの業務にも携わっている。 現在、自身最大の長編となる予定の漫画の執筆に取りかかっており、代表作の何編かは外国との合作による実写映画化の計画も進行中。

松本零士オフィシャルサイト http://leijimatsumoto.jp

何もかもを質屋に入れ、片道切符を買って上京。故郷には帰らないと決めていた

私たちが戦争の記憶を生々しく持つ最後の世代でしょうね。第2次世界大戦末期、6歳の時に愛媛県大洲市に疎開し、自然の中で存分に暴れて育ちました。田んぼのあぜ道で駆け回っていますと、アメリカ軍のB29の大群が頭上を飛び超えて広島市や呉(くれ)市(広島県南西部に位置する)に向かうわけですよ。雷撃機や艦載機(航空母艦以外の艦船に搭載される水上機)も飛んでいましたし、それを迎え撃つ日本の戦闘機との空中戦も見ました。私自身が機銃掃射を浴びて命からがら逃げたこともあります。「パン、パパン」「パン、パパン」という爆弾の音が今も耳に残っています。

 

終戦から1年くらいたったころに父が復員し、一家で福岡県小倉市に移りました。父は陸軍のパイロットでしたが、戦後はGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の公職追放にあいましてね。露店で野菜を売り、今にも崩れ落ちそうな5軒続きの長屋に住む貧しい生活でした。当時、多くの元軍人パイロットは自衛隊に入りましたが、父は「大勢の部下を失って帰ってきて、どの面を下げて空が飛べるんだ」とかたくなに入隊を拒みました。父の気持ちは子どもながらにもわかり、その姿を尊敬していましたね。だから、学校の行き帰りには黙って父のとなりに座り、一緒に野菜を売りました。

 

漫画は子どものころから描いていて、高校1年生の時に雑誌の漫画賞に入賞。それをきっかけに、門司港(福岡県北九州市)にあった毎日新聞西部本社で『毎日小学生新聞』の連載を担当させてもらえるようになりました。原稿料は1枚350円で、1カ月連載すると当時の会社員の平均月収くらい。学費や生活費として全額を父に預けていました。

 

貧乏をつらいと思ったことは一度もありませんが、悔しさは時に味わいました。本当は、私には大学の機械工学科に進学したいという思いがありましてね。子どものころからメカや宇宙が大好きで、「いつか自分の設計したロケットで火星に行きたい」と夢見ていたのです。でも、少しでも家計を助けたくて、現実的に一歩を踏み出していた漫画家になる道を選びました。ちょうどそんな時に高校のある先生がうちの家庭環境を知っておきながら、「お前、大学へ行かんでいいのか?」と授業中に言ったんです。「はい」と答えながら、ひどいヤツもいるものだと思いました。一方で、「松本、お前、漫画家になるなら英語くらいできなければダメだ」「科学漫画を描くなら、物理学をやれ」と応援してくれる先生もたくさんいましたよ。おかげで社会に出てからも教養面で困ることはなく、今でも感謝しています。

 

高校卒業後は、毎日新聞西部本社の『毎日小学生新聞』編集部長から「うちに来い」と言っていただいていて、そのつもりでいました。ところが、部長以下全員が大阪本社に栄転し、私だけが置き去りに。約束はなかったことにされてしまい、高校を出ていきなりの失業です。しかし、落ち込んでいる余裕はありません。死にもの狂いで原稿を書いて東京の出版社に送り、卒業後2カ月目に月刊の少女雑誌での連載を獲得しました。

 

そのうちに仕事が増え、インターネットもファクシミリもない時代ですから、出版社も私が小倉にいては何かと不便だったのでしょう。ある日、「一刻も早く勇姿を現したまえ」という手紙が来ました。そう言われても、私には上京資金がありません。「勇姿は現したいのですが、お金がありません。ついては、原稿料の前借りはさせていただけないでしょうか」と返事を書いたところ、「来れば渡す」と。そうとくれば、行かないわけにはいきません。持っていたものを何もかも質屋に入れて片道切符を買い、家族には「死んでも帰らん!」と宣言して画材道具だけを持って夜行列車に乗り込みました。まさに『銀河鉄道999』の主人公・ 鉄郎が地球を旅立つ時と同じ心境です。小倉から関門トンネルをくぐり、瀬戸内海が見えるところに座っていてね。星空が輝いて、ところどころ街の灯(あか) りが揺れ、星の海を飛んでいるみたいでした。

 

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自分の目で確かめることが大事。実体験がないと、奥行きは描けない

上京後は本郷三丁目にあった下宿「山越館」の4畳半の部屋に暮らしながら、少女漫画を描きました。当時、少年漫画は大家が押さえていて、新人に門戸を開いているのは少女漫画だけだったんです。「山越館」には学生や浪人生から会社員までいろんな人が同居していましてね。その中に、父と同様に公職追放にあった経験を持つ元海軍の猿渡中佐もいました。巡洋艦「最上」の副艦長もしていたという人で、彼がなんと戦艦「大和」や「武蔵」の設計図を持っていましてね。私がメカ好きと知って、「邪魔だから、お前にあげる」とくれました。のちに『宇宙戦艦ヤマト』を作る時に戦艦の構造を熟知していたのは、この設計図をいつも眺めていたからなんですよ。

 

若くて力がみなぎっていましたから気になりませんでしたが、仕事は常に不安定でした。上京後数年で少女漫画の世界に女性の漫画家が登場するようになり、少女漫画を描いていた男性の漫画家はほとんどが失業。「明日はわが身」という時に連載が始まったのが、私自身の下宿生活を誇張して描いた『男おいどん』です。この作品の中で主人公がインキンタムシになるのですが、あの病気は当時大流行していて、接触感染ですから、共同生活をしているとみんなにうつるんです。でも、人に知られるのが恥ずかしくて、みんななかなか薬をもらいに行けないんですね。私もそうだったのですが、ある時新聞に「白癬菌(はくせんきん)俗にインキンタムシ」と書いてあり、「学名なら言える!」と薬局に行ったら、一発で治りました。

 

その経験をありのまま作品に描いたら、段ボール箱何箱分もの手紙が来ました。みんな、ものすごく悩んでいたんですね。手紙には「あんたのおかげで人生が明るくなった。ありがとう」と。中には、当事者のガールフレンドからのお礼の手紙もありました。それまではたまにファンレターが来るくらいだったのに、『男おいどん』はものすごい反響で。読者の皆さんにも同じ体験があるから、共感を持って読んでもらえたんですよね。自分の夢だけを描くのではなく、共同の体験をきちんと描くのが大事なんだと知りました。仕事として漫画を描くからには、人生観とか生活感、共同意識がないと人に覚えてもらえない。インキンタムシが私を目覚めさせてくれました(笑)。

 

『宇宙戦艦ヤマト』でアニメ制作に初めてかかわったのは30代後半です。もともと私が漫画を描き始めたのは5歳のころに見た『くもとちゅうりっぷ』という日本の白黒アニメーションの影響で、いつかは長編アニメーションが作りたいと思っていました。ですから、『ヤマト』はまさに肝いりの作品でしたが、最初は視聴率が悪く、36話の予定が26話で打ち切られたんです。行き詰まりを感じ、次回作が連載になるかもわからない状況の中、初回から5話分出版社に渡してアフリカへの旅に出ました。

 

アフリカで私を迎えたのは、360度に広がる自然と壮大な星空。それらを見ていると、悟りを開きましてね。「視聴率がなんだ、金がどうした、人気がどうした。自分のやりたいことをやろう」と考えられるようになり、意気揚々と帰国。すると、再放送の放映で『ヤマト』の人気が出始めており、出発前に原稿を渡した作品も連載が決まっていました。この作品が『銀河鉄道999』です。

 

2013年には『宇宙海賊キャプテンハーロック』がフル3DCGとして映画化されましたが、この作品は私の中ではまだ未完成で、いずれは3D空間上で360度の立体として動かしたいんです。技術の進歩は早いので、もはや夢ではないと思っています。

 

もし、家庭環境に恵まれていたら、大学に行っていたでしょうね。ただし、もしかしたら、目的意識は希薄だったかもしれない。社会に出て、モノになっていたかはわからないです。戦後の激動の時代に関門海峡の荒波で家族が食べる魚を獲(と)る少年時代を過ごし、仲間たちと暮らした下宿での青春時代も経て、漫画を描き続けてこられた。今では自分の人生を面白いと感じています。

 

アマゾンで泳いだり、ケニアで狩りをしたりと旅にも出て、今では規制が厳しくてできないようなメチャクチャなことも経験しました。そういう面では、われわれの世代は今の若い人たちよりも挑戦しやすかったのかもしれません。ですから、われわれと同じ道を歩めとは言いませんが、実体験がないとリアリティーのある作品は生まれません。

 

例えば、漫画に描かれた風景を見てもね、ひと目でわかるんですよ。実際に行ってその風景の裏側まで知っている人が描いたか、写真資料を見て描いたのかということが。若いころは私も何でわざわざ現場を見なければいけないんだろうと思っていました。でも、写真資料というのは平面で、人は実際にはものの立体感を見ているんですよね。だから、やはり実体験がないと物事を本当には描けない。ピラミッドにせよマチュピチュにせよ自分の目で見て、その裏まで歩くと奥行きが描けるようになります。自分との距離感や大きさの対比といったものも描けるわけです。温度や気圧といった空気感の表現も違ってきます。クリエイターに限らず、若い人たちにはぜひ物事を自分の目で見て、確かめることを大事にしてほしいですね。

 

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INFORMATION

『銀河鉄道999』『宇宙海賊キャプテンハーロック』など松本さんがメカデザインを行い、同じメカマニアの板橋克己さんと共に描き上げたメカデザインのほとんどの設定画を収録した画集『零次元機械紀行』(小学館/税抜き4980円)が2015年6月29日に発売される。線画を含め500点近いイラストを収録。松本さんと板橋さんによるロングインタビューも収録されている。

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取材・文/泉彩子 撮影/刑部友康


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